◇for marionettes◇

たぬの思うこと。

新自己になって変わったことと、旧自己の分析

変わったこと。


顔立ち。

髪質。

筋肉の動き方。

話し方。

話す量。

あと、全くさみしがりやでなくなりました。


圧倒的に頭のなかで処理する量が減ったと思います。

ちなみに参考になるかわかりませんが、前回197だったIQテストが165になりました。

(高めの点数が出るものだと思います。数値の差だけ考慮しています)


いかに身体が脳に支配されていたかです。


脳が変わることで身体にも影響が出る……?身体も人格を持っている……?


思えばこういう性格は……

幼稚園の時かな?


ホントにまわりを見てなかったし、競う意欲は欠片もなかったというか、そんなことはめんどくさくてしたくなかったのです。


楽器をはじめてから、否が応にもなにかと戦わなきゃいけなかったんですね。

遊びたい気持ち、混じりたい気持ち、それを誤魔化して意地を張って、無理矢理ポジティブに考えないと上手くならないから……と思って、自分の選択が一番間違ってないのだと、これは天職なのだ!と思い込ませた結果、ひねくれ芸術家もどきになりましたm(_ _)m

それが今まで。

今年の夏には考え込みすぎて病んでしまって、そこで見えた世界はいくつかの文章になって、結構今見てるとスゴイ世界なのですが、あんな辛い思いをするぐらいなら特に戻りたいとも思いません(^^;


いくらポジティブに考えようとしても、根が自分にとってポジティブでないことは絶対にポジティブにはならないってことを学びました。


小さい頃、トロくてまわりを見てなくて向上心の欠片もない私の唯一の良いところは、人に意地悪をしないところだったらしいです。

今の私にも、それぐらいしか思いあたる良いところはないですね。

でもそれが私ならそれでいいと思うんです。


意地を張ってうわべだけ強くなって、頭もフル回転させていた頃は、確かに頭と身体の異常な努力(もとがこんなんだから)の甲斐あってたくさんのものを持っていたと思います。

どんどんサイケなもの書けたし、しゃべることも過激で自己哲学もあったし、ハデなキャラクター、人間の悪いところを掘り下げて包み隠さず突きつける価値観、演奏するときは舞台で過集中して気を取り込んだり気を放出したり大変でした。

たくさんのものを持ってて、色んなものが開けましたが、ほんっとうにずっと気分が最悪でした。最悪ならまだいいけれど、最悪の先にある最悪は、もう意識がどこにあるのかわからなくて現実と幻想の区別がつかない状態です。自分が本当に歩いてるのかわからないのです。今思えば過度なストレスによる解離体験です。いつも、もう狂ってしまうどうしよう、とばかり言って家族に心配をかけていました。


それが飽和状態に達したのが12/7です。


ありがたいことです。

小学生から自分以外の価値観を無理矢理生きたおかげで、今ある程度冷静な判断力がある年齢から、プレーンな状態の自分を再起動することができます。


意地悪をしないという良いところだって、まわりに注意を払うのがめんどくさいだけなんですけどね。


とりたてて目立たない子だけど、ユーモアはあります。


なんだか今の自分が、一番好きです。

誕生日

12/7に悲しみが最高点に達し、私を消し去っていきました。


7日の夜に冷静に旧自己と新自己の間に浮遊し、8日、うまれました。


誕生日、1/6と12/8です。


これから人生を作ると思うと楽しい気分です。

不思議なことに、旧自己の記憶と感情回路をほぼ覚えていません。実感しません。


悲しみの果ての自己喪失だったとして、逃避だったとして、解離だったとして、もはやそれでいいのです。きっと悲しみを自己と他者にふりまくことがないのだから。


私の熱い憎しみや感情が原動力になり、作品を生み出してきました。それがなくなるとして、残るのは何だろう。

「人間としてこうありたい」がなくなりました。なにもわからない。何も考えてない。


人間を客体として見るためには、脱人間化という方法しかないというロジックツリーを完成させたことがありました。


私は今なんなのだろう。

人間である。

人間であるがゆえに、自己や人を客体として見ていない。

否、自分を人間だと認識しないことこそが人間ではなかろうか。それならば?

ただ、わたしは感情が動かない。

人がぬいぐるみを大切に思ったり、ぬいぐるみが人を大切に思う絵本を読んで、自分にとってのぞえのことを思って感動してしまったが、

なんだか感情ボタンは奥までぽちっと押すまえに薄い膜があって、ボタンの一番底までいくことが自分に負担をかけていたようなのだ。

感情は私は本から得た。価値観を本から得た。その感情や価値観がひとのものだとしたら、わたしは、わたしだけなら、

ほんとは、すべてが平和にいけばどうでもよかった。みんなが笑っていればそれでよかった。かといって、昔のように悪い人を許せないということもなかった。悪い人はきっと自分のなかのほんとうに気づかないかぎり、何をしても笑ってくれないのだ。だから、いい。目に入らない。


ひとの感情がひとのものだとわかったなら、わたしには価値観が今ない。

なにもなく、ぜろで、透明で広く至るところまでなにもない。


価値観のひとつめは、きっと「笑顔はかわいい。笑顔は泣かせる。笑顔のないところに、真の会話はない」


そして、私は

ビリー・ジョエルが好きだ。

芸術家

色んな定義があると思う言葉。


私は弦楽器のヴィオラ(ヴァイオリンより1.5倍くらい大きい中低音楽器)の生徒として東京「藝術」大学の附属高校に所属しています。


入学した当時から考えていたのは、

芸術とはなにかということと、自分は芸術家として生きていくのだろうか、また、どんな生き方をするのだろうかということ。


芸術家というと奇妙キテレツな印象が世の中で持たれていたり、孤独のなかで人々があっと驚くような作品を迸らせたり、また精緻に美を追求したり、たまに少し気難しい人もいたり、「自由な発想で枠にとらわれない」「天才的なひらめき」「孤高の職人」などがわたしの「芸術家」のイメージでした。


わたしは相当変な子供で、変わっているところもたくさんあるそうです。天才的なひらめきをするときもあります。枠にはめられる前に枠の正当性を自分で納得しないと逃げ出そうとします。また、完璧主義者で、こだわりはじめると細部まで完璧に美しくないと満足できません。


でもだからといって「芸術家」と呼べるかといえばそうでもありません。


というか、それらの特徴=芸術家というイメージが、世界からの阻害を助ける。


孤独や人にできない発想は、苦しいんです。

あるとき天才的なひらめきをしても、まわりの誰もその面白さに気づいてくれないことが多いと、すごく苦しいです。

枠にはまらないと嫌われます。悪いことをしているつもりがないのに人からは悪いことだと言われたとき、どう思いますか?

私は、いつか自分が自分で悪いと思わずに、取り返しのつかない悪人になってしまうような気がします。

世間とのずれは、世間と自分のどちらも絶対の価値観ではないのに、個人として生きる人間をいつも責め苛みます。


それが「芸術家」と言われてしまったら、

いかに的を射ていたとしても、外からは勝手にポジティブな意味で見られ、苦しいところは面白おかしく、テレビで見るような「対象」として他人事にされ、また本人が段々とそれに慣れて「芸術家ぶるただの孤独をひけらかす人」になっていくような気がします。



芸術家に「孤独」の要素があり、孤独を埋めるために表現するということを無意識に行っているのであれば、芸術家は「さみしがりや」ということになります。そして、表現するのだから、「今現在さみしい」のです。

作品を生み出して、それが卓越して素晴らしいとしましょう。

「芸術家」とたくさんの人に言われ、自分の孤独をファッション化されます。

作品を生み出す才能があるだけで、自分の孤独を誰も深刻に捉えてくれなくなります。


ただの、さみしがりやです。

ただ何かができる、さみしがりやです。



私が今思う芸術家は、「愛する心がある人」。

自分がさみしかったから、人をさみしがらせない人です。

人に愛されるために、人を愛することにとても真摯になった人です。


今私はそういう意味での「芸術家」を目指しています。


私の家庭が恵まれていたから思えることかもしれませんが、

私にとっては最も愛に満ちている人とは、私の両親です。


いつか私が親になるなら、両親のようになりたい。


長くなりました。


3年間考えて今のところの結論、自分ではとても納得いっています。

嬉しい気持ちです。すっきりしました。