芸術家
色んな定義があると思う言葉。
私は弦楽器のヴィオラ(ヴァイオリンより1.5倍くらい大きい中低音楽器)の生徒として東京「藝術」大学の附属高校に所属しています。
入学した当時から考えていたのは、
芸術とはなにかということと、自分は芸術家として生きていくのだろうか、また、どんな生き方をするのだろうかということ。
芸術家というと奇妙キテレツな印象が世の中で持たれていたり、孤独のなかで人々があっと驚くような作品を迸らせたり、また精緻に美を追求したり、たまに少し気難しい人もいたり、「自由な発想で枠にとらわれない」「天才的なひらめき」「孤高の職人」などがわたしの「芸術家」のイメージでした。
わたしは相当変な子供で、変わっているところもたくさんあるそうです。天才的なひらめきをするときもあります。枠にはめられる前に枠の正当性を自分で納得しないと逃げ出そうとします。また、完璧主義者で、こだわりはじめると細部まで完璧に美しくないと満足できません。
でもだからといって「芸術家」と呼べるかといえばそうでもありません。
というか、それらの特徴=芸術家というイメージが、世界からの阻害を助ける。
孤独や人にできない発想は、苦しいんです。
あるとき天才的なひらめきをしても、まわりの誰もその面白さに気づいてくれないことが多いと、すごく苦しいです。
枠にはまらないと嫌われます。悪いことをしているつもりがないのに人からは悪いことだと言われたとき、どう思いますか?
私は、いつか自分が自分で悪いと思わずに、取り返しのつかない悪人になってしまうような気がします。
世間とのずれは、世間と自分のどちらも絶対の価値観ではないのに、個人として生きる人間をいつも責め苛みます。
それが「芸術家」と言われてしまったら、
いかに的を射ていたとしても、外からは勝手にポジティブな意味で見られ、苦しいところは面白おかしく、テレビで見るような「対象」として他人事にされ、また本人が段々とそれに慣れて「芸術家ぶるただの孤独をひけらかす人」になっていくような気がします。
芸術家に「孤独」の要素があり、孤独を埋めるために表現するということを無意識に行っているのであれば、芸術家は「さみしがりや」ということになります。そして、表現するのだから、「今現在さみしい」のです。
作品を生み出して、それが卓越して素晴らしいとしましょう。
「芸術家」とたくさんの人に言われ、自分の孤独をファッション化されます。
作品を生み出す才能があるだけで、自分の孤独を誰も深刻に捉えてくれなくなります。
ただの、さみしがりやです。
ただ何かができる、さみしがりやです。
私が今思う芸術家は、「愛する心がある人」。
自分がさみしかったから、人をさみしがらせない人です。
人に愛されるために、人を愛することにとても真摯になった人です。
今私はそういう意味での「芸術家」を目指しています。
私の家庭が恵まれていたから思えることかもしれませんが、
私にとっては最も愛に満ちている人とは、私の両親です。
いつか私が親になるなら、両親のようになりたい。
長くなりました。
3年間考えて今のところの結論、自分ではとても納得いっています。
嬉しい気持ちです。すっきりしました。