◇for marionettes◇

たぬの思うこと。

きちんと髪を洗い乾かすと

近頃髪をきちんと丁寧に洗いきちんと丁寧に乾かすと、髪がちゃんと巻いたみたいな内巻きの天然癖毛になり、しかもつやつやでさらさらです。

あとはリップクリームと色のついたのを丁寧に重ね塗りするだけで身綺麗にしてる感じが出るので便利です。


髪をきれいにしてると鏡に映る自分が心の余裕があるように見えて、その姿を見て余裕を持てますね。


今まで、ほんとに見た目に気を使ってこなかったんです。

悩むことが多すぎたのもあるかな。

別にそれでも困らないんだけど、心は荒みますよ。


顔が童顔で身長が低いので、髪をぼさぼさにしてると巨大帽子をかぶっているお婆さんみたいになるんです。心が荒んでいたときは目も怖かったので、今にも目が合った人を呪いそうだったと思われます……


今日はとてもいい日でした。


今日決めたこと、


綺麗な日本語を使う!


最近、日本が好きです。

日本語も好きだし、日本食も、あんまり食べたことないけど食べてみたいなあ。

あとは、やっぱり生まれてない時代の日本文化に興味が生まれてきました。

日本っておもしろそう!


楽しく生きるコツ、身近にあるものの楽しさに気づくこと。

たぶん日本は「たのしい!」の宝庫……

海外に行ったときもたくさん自慢したいですね。

もっと勉強します!


古来より続く日本の「たのしい」は、控えめで、小さくて、路傍の花のように、21世紀にほとんど忘れ去られても「忘れないで!」などと激昂したりしません。ただそこにあるのです。


だからそれに気づくには、丁寧に、丁寧に、小さなたのしさを、道端に屈んで、目線を合わせて、スピードを出しすぎずに感じることですね。


ずっと反感を持っていた日本人のメンタリティ。それは現代の日本人のもの。今は世界規模で見れば現状そこまでスピード社会ではないかもしれませんが、これからスピードを求められれば、自主的にではなく追い立てられることになってしまいます。誰かの影響を受けて追い立てられると、同じスピードだったとしても自主的に走るよりずっと疲弊します。


日本人とはどんな人だったのか。



きちんと乾かしてつやつやになった髪は、私は市松人形のように切り揃えています。おかっぱの長さです。癖毛でまっすぐではないですが……


この生まれたままの黒髪を誇りに思えるように、日本に生まれた者のアイデンティティを探してみようかな。


そんなことを思った夜でした。

世界に。

わたしが笑えないと世界は変わらない。


人間は、みんな傷ついていると思います。

傷ついている人に育てられて、また傷ついていきます。


嘘をついたり、心の病気になったり、人に優しくできないのは、傷ついているから。


みんな頑張ってる。

傷ついてない人なんていない。平気な人なんていない。


だけどこのままじゃ、結局みんなこころのそこで愛を求めているのに、傷つけあうばかりになってしまいます。


わたしは世界を変えたいです。


だからわたしが笑えるようにならないと、みんなが幸せになれません。


弱い、たったひとりの人間の力で、同じ大きさの人間を幸せにできるかって言ったら、それはとても難しいってわかっている、わかってるけど、やってみなきゃなにも変わらないし、やってみなきゃできるかわからない。やってみる姿がなきゃ、誰もこの考えには気づかない。


小さい頃ジャンヌ・ダルクの伝記漫画を読んで、泣いちゃったの。こんなにすごい人がいるんだって思ったの。そのあと、同じ誕生日だって知って、すごくうれしくて、こんな人になるんだ!って思った、それが、小学生の時だけど、今でもずっとそれだけで生きてる。


大昔の、肖像画を見てもちゃんとほんとの顔もわからないような時代の人。

その人の背中を追いながら、ずっと希望を捨てずに生きてこられている。


いつかは変わるって。


どうしても諦めたくない。


絶対に、笑顔になって、世界を変えます。

一日でも早く!

頭はこわい。

頭が疲弊してるようなんですね。


記憶ができなくなっていて。

記憶したことを思い出す集中力がないというか。


それともそれも第二誕生日の変化なの?


しようとしてたこと忘れたり、

さっきまで思い浮かんでた単語を忘れたり、

さっきの気持ちを忘れたり、


ふとした時に、前の自分が顔を出すようになっていて、

わたしという世界が二層になっていて、下の層が出てくると今でも空間のすべてに傷つく状態に戻ってしまうんです。そこで何も受け取らないようにしていると、なんの頭も働かなくなるんですね。ちなみに、頭を働かせないぶん感覚が表に出てきて便利なときもあります。


二度と普通の状態には戻らないのだろうか。何かから逃げるしか平穏に生きる道はないのだろうか。


価値観だけの問題ではないみたい。


とある選択の結果に自分Aが満足していても、ある瞬間に違う、自分Bに切り替わってしまって、その自分Bはさっきまで満足していたことなんて実感として覚えていず、事実だけ認知している状態で、自分Bにとっては自分Aの選択はありえないぐらい嫌悪感を催すものなんですよ。


一体これはどうしたらいいんだろうなー。


自分のしたいことや考えることが、味方がいないようなものばっかりだから、自信がなくて自分で仮想「世間」を代行してジャッジしているのかもしれない。


でも、迫害もされていないんだ、自分が自分をこうして他人のように見つめて恐れてひとりぼっちにしさえしなければ、生み出せたたくさんのものがあったかもしれないのに。


でも、「これが自分だこれでいいんだ」と意識すると、今度は意識してその状態を無理矢理作ってたりしませんか?


それでも、圧力があるならばそのぶん無理にでも通さないとどうにもならないことなのか。


一回トンじゃうのがいいかもしれませんね。

やってみなきゃわからない。

とにかく頭で何にも考えずに、やりたいことをやってみるんですよ。てか、頭で何にも考えずに、日常を送ってみるんですよ。

わたしの頭が問と答の構造になっていたり、自分Aと自分Bが独立した人格になっているのは、しょうがないことなんです。だって、今まで感情を捨てて、主観をできるだけ無くして、できるだけ多数の視点を拾い集めて最終的にはそれらを統合して世界を理解しようとしてきたのだから。

今さら単一の視点で(単一の人格を手に入れることなんて)、よっぽど荒療治をしないとできないことなんですよ。


だから、きっともうわたしの頭は単一の人格を手に入れる目的においては使えないんだと思います。


だから、頭は使わない。

頭で考えて行動しない。


記憶を引っ張り出さない。

以前の思考回路を引っ張り出さない。


統一性がなくてもいい、その時したいことをして、先のことは考えずに、そしていつか知らない間に無作為のデータが溜まったら、それを見て自分の人格が眺められる日が来るかもしれない。


その日まで純度の高い本能的行動をサンプルしてみます。何か結果が出るように。


……がんばります……


3日くらいで変わりませんように。